創価学会って仏教なの?大乗仏教って何なの?(仏教の話②)

(前回のお話はこちらです)

随分前に仏教のお話を勉強して書いていく、
と言いながら随分間が空いてしまいました。

読者の方から続きを読みたいとのありがたいメッセージ頂きましたので、
今回本を引っ張り出してきて書いてみたいと思います。

(この投稿は勉強の進捗により変更したり、追加したりするつもりです。
また管理人の理解で記載しているので間違いも多々あると思います。お気付きの点あれば随時修正するのでメッセージいただけると幸いです)

大乗仏教とはどんな仏教か?

前回書いたように、元々の仏教(小乗仏教・上座部仏教と呼ばれる仏教)は
「修行僧だけが悟りをひらけるのであって、出家をしない人は(良いことはあれど)悟りをひらくことはできない。」
また「悟りを開ける人にもレベルがあって、殆どの人は「仏」ではなく「阿羅漢(あらかん)」という位までしか悟れない」という考え方でした。

それに対して、大乗仏教のお経では
「修行僧だけでなく、出家をしていない世俗の人も仏になっていくことができる」
と説きます。

創価学会の源流である日蓮仏法もこの大乗仏教の中に位置づけられる「法華経」を中心にすえています。だから世の中全ての人が「仏」になることができると考えます。(もちろん頑張った上です)

大乗仏教の中での各宗派違いはどこからくるのか?

「在家の人でも仏になれる」と説く大乗仏教ですが、その中にも様々な宗派があります。

大乗仏教の各宗派の違いは、
その宗派が考える「在家のままで仏へなっていく方法・プロセスの違い」にある
と考えれば分かりやすいです。

例えば創価学会の源流である日蓮仏法では、
「南無妙法蓮華経と唱えることが仏になる方法である」と考えるわけです。

これは日蓮仏法の中心にある「法華経」には「法華経というお経自体にすごい力がある」と説いていること、日蓮が「南無妙法蓮華経」と唱えることへと収斂したからです。

つまり各宗派が中心に据える「お経」の中に書かれている
方法・プロセスの違いが、各宗派の主な違いになるということです。

大乗仏教の重要な共通点

もちろん違いが色々とある各宗派(各お経)ですが、
概ね共通する考え方もあります。

それは、仏になるために必要なことは

①仏と出会うこと

②善行を積むこと

という2点が重要だという共通的です。

つまり

「全ての人は仏と出会い、善行を積むことで自身も仏」になれるという考え方です。

また各お経で説かれている

・仏と出会う方法・プロセスの違い

・善行の積む方法・プロセスの違い

という「方法論の違い」が、

これが各宗派の違いへと繋がっています。

仏と出会って誓うことで菩薩となる

「①仏と出会う」とはどういうことでしょうか?

お経とはブッダが亡くなったのちに、ブッダの教えを伝えるために弟子達が書き起こしたものでした。

そこで大乗仏教のお経をつくっていったブッダの弟子たちは、
「仏にどうやったらなれるのか?」ということをブッダがいなくなったのちに
一生懸命に考えます。

そして仏になるには、仏であったブッダ(=ゴータマ・シッダールタ)のように
行動していけばよいと考えつきます。

しかし、かつてのブッダが特別なことをやっていたかというと、
その弟子たちも同じような修行をしているはずです。
やはりブッダのように特別な人でないと仏にはなれないのでしょうか?

もともとの仏教では仏までなれるのはブッダのような特別な人であり、
そんな人は何十億年に1人しか現れないと考えていました。

でも、大乗仏教のお経を書いていく弟子達は「在家のみんなを救うために様々な工夫」をしていきます。

その工夫とは、「ブッダの生きているときではなく、
生まれる前の前世のときの行いに
仏になる特別な行いがある」と考えるわけです。

このとは弟子たちが考えた「仏になるための特別な行い」とは
「ブッダは実は過去の世界で別の仏に出会い触発されて菩薩となった」
ということです。

従来の仏教ではブッダ=仏だったわけですが、
大乗仏教では「悟りを啓いた人は全て仏になる」ので、
ブッダ以外にも仏はいることになりますよね。

そこでブッダ自身も生まれる前の過去で、悟りをひらいた他の仏に出会い、
その仏に対して(仏になる前のブッダは)「修行して仏になることを誓い菩薩となった」という話になります。

少しSFぽくなるのですが、この考え方をざっくりいうと

・ブッダは生まれる前に、他の仏と出会い、仏になることを誓って菩薩となった
・わたしたちもブッダと同じように仏(ブッダ)に出会い、菩薩となって修行をすれば仏になれる

という考え方です。さらに言えば宗派によっては

・実はわたしたちもみんな過去世界においてブッダに出会っており、既に菩薩なんだ!

という考え方も出てきます。

この辺の「出会い方」にはお経ごとにバリエーションがあるようです。

また、そもそも「仏と出会う」というよりも「仏の教えと出会う」=「お経を学ぶ」「お経を唱える」というようなニュアンスで捉えている部分もあるようです。これはこの後説明する「②善行とは何か」の部分にも関係します。

 

MEMO

ちなみにこの仏と出会い「修行をして自分も仏になることを願い誓う」という行為を
「誓願」(せいがん)といいます。創価学会でもたまに「誓願」という言葉が出てきますが、語源はここだと思います。

また「菩薩」(ぼさつ)というのは「仏」と混同されがちですが、仏になることを誓い修行をしていく「仏の候補生」のことが菩薩です。(それゆえに菩薩とは善行を重ねる人たちでもあります)

仏を信じて求めることが最高の善行である

さて、大乗仏教の主な共通点である「①仏と出会う」とは
「仏と出会って誓いを結んで「菩薩」となること」
ということだとわかりました。

では次に「②善行を積むこと」の「善行」とはなんでしょうか?

大乗仏教の特徴には「利他」の考え方があります。

従来の仏教(いわゆる小乗仏教)では修業は自分が苦しい思いをすることでしたが、
大乗仏教では修業とは「利他の行動」すなわち日常生活で人々や社会にとって良いことをすることだと考えます。

なぜなら、修行僧として自らに苦行を課して修行に専念できる人は一握りであり、
みんなを救うことを目指している大乗仏教では、みんなができる方法が必要だからです。

その意味で「日常の中で良いことをするのが修行」というのはとっかかりやすいですよね。

しかし、この「日常の良いこと」の中でも一番良いことだと位置づけられるものが
「仏と出会い、仏を信じて供養する」ということになっていきます。

つまり、究極の善行とは何か?と考えた先に
「仏と出会い、仏を信じて、仏を供養する」という思想にいきつきます。

さらに、仏と会うことは現実世界では難しいので、

人間の形をした仏ではなく、
仏の教えである「お経」を崇めること、その教えを学び、他の人へ伝えていくことも
究極の善行であると考えるようにさえなります。

こういった背景もあり、大乗仏教ではお経を唱えたり、
写経をしたり、人に教えを広めたりということをバリバリやることが善行=仏になる修行であると考えられるわけです。

創価学会が友人・知人に教えを広げまくろうとする理由の源泉、このあたりから既に存在するということになります。

まとめ

長々と書いてきたので最後にもう一度まとめますと、

①仏と出会うこと ②善行を積むこと によって「みんなが仏になることができる」という考えが大乗仏教の共通点

一方で「仏との出会い方」や「何を究極の善行と見なすのか」などの方法論の違いが各お経で異なり、それが宗派の違いにも繋がっている。

ということになるかと思います。 (また続きを書きたいと思います)

参考文献