創価学会は他宗教に厳しいの?宗教をどのように捉えているの?

最近「どうして創価学会の人は神社参拝や七五三、結婚式などを嫌がるのか」という相談が寄せられました。

これについては正直「え、今時そんなことないんじゃないの?」というのが感覚でした。

確かに昔は他宗教へ接することは厳しく排除しており、
「神社の鳥居をくぐるな」とか、「地域の祭で神輿は担ぐな」とかあったらしいです。

だから七五三(神道系のイベント?)とか結婚式(キリスト教系のイベント?)について、
嫌がるというのもまあ分からなくはないです。

しかし今は「地域のイベントには積極的に参加して地域の一員として頑張ろう」くらいのノリだと聞いていますし、クリスマスパーティーはやるな!なんてことは全くないと思います。

そんなわけで現在の創価学会が他宗教に対して明確に敵意をむき出しにするというのは過去因縁のあった宗門くらいと思うわけです。

(ちなみにこの辺りの創価学会の歴史についてはジャーナリスト田原総一郎さんの「創価学会」が詳細に調べていていい感じでした。今度この本についても書きたいと思います

→ 創価学会 [ 田原総一朗 ]  

さて、そんなわけでわたし自身は現在の創価学会が他宗教に対して厳しいとか、排除的だとは感じていません。

しかし、確かに教えの中で「正しい宗教はこうだ」とか「聖邪ハッキリさせるべし」など、
「誤った宗教」というものに対しては毅然とした態度で臨むべしというところがあるのは事実だ思います。

そこで「どうして創価学会は他宗教に厳しいのか。宗教をどう捉えているのか」という点について、
私がこれまで勉強してきたことや、そこからの私なりに理解したことを整理しておきたいと思います。

このネタはいつか書きたいと思っていたのですが、なかなかまとめきれなかった内容でして、
書き出したら結構長くなってしまいました。しかもまだ完結できてない感じです。

気長にお付き合いください。

仏教は神様を崇める宗教ではない

そもそものところから入ると、仏教(創価学会は日蓮仏法の団体です)が神様を崇めるような宗教ではないということがあると思います。

仏教で説いているのは成仏=仏になること。これって、神様になることではなくて人間が悟りを開いて「ブッダ」のようになることをさします。

じゃあ神の存在を否定しているかというとそんなことは無くって、仏教にはインドのヒンズー教系の神様がたくさん出てきます。

ただこれらの神様はあくまでもブッダを守護したり、導いたりする存在です。
「神様に頼って何かをしてもらう」のではなく、その助けは借りることがあっても「自分自身が悟りを開く」ことが大事なわけです。

神様の存在を認めつつ、あくまで大事なのは自身の悟りというのが仏教の面白いところだと思います。

神様はあくまでも悟りを開くための修行に勤しむ人を守ったり導いたりする存在であって、主役は悟りを開く人自身というのが仏教の世界観だと思います。

そのため神様を絶対視していないのですが、否定もしていません。だから本来は他宗教との相性も良いと思います。キリスト教やイスラム教のように一神教だと、自分のところの神様が絶対なので、他宗教の神様を認めることができないですよね。

そんなわけで仏教はもともと他宗教に対して融和的なスタンスになって良いはずなのです。(私なりの解釈です)

でも、日蓮仏法はまた少し違うスタンスです。

日蓮仏教は他宗派に厳しい

本来他宗教と融和的になる(はず)の仏教において、日蓮仏法の他宗教に対するスタンスは非常に厳しいものです。

これは日蓮が他宗教、特に「誤った宗教」に対しては断固とした態度をとるべしと言っていたからです。
日蓮が活躍した時代は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱える「念仏仏教」が日本全国で流行った時代です。

歴史の教科書でも聞いたような気がしますが、
「南無阿弥陀仏とさえ唱えれば悪人でも成仏して極楽浄土にいける」というのがその教えです。

南無阿弥陀仏とは「阿弥陀如来(あみだにょらい)に帰依する」ということなのですが、
要は「阿弥陀様にさえ頼れば大丈夫! 難しい修行とかいらないから、みんな南無阿弥陀仏と唱えなさい!」

という感じの教えなわけです。

古い仏教はもともと出家して僧侶になって、修行しないと成仏できないという考え方でした。(これを小乗仏教、上座部仏教と呼びます)
しかし、歴史が進むに連れて教えも変化して行き、「より多くの人を救うために僧侶以外も成仏できる」ような考えに派生して行きます。これが大乗仏教であり、念仏仏教もその流れにあるわけです。

確かに多くのひとが救われる対象になったまでは良いのですが、
「悪事を働いても南無阿弥陀仏とさえ唱えれば大丈夫」というのは、
「この世で頑張っても無駄だから来世さえよければいいや」という状況を生み出します。

当時の日本は自然災害や飢饉で散々な状況でありました。
「この世は辛いけどせめて来世では幸せになる」というのは人々のなけなしの希望であると同時に、
ある種の「諦め」を生むことにもなります。

そんなわけで自殺者や悪人が増えることになり、
当時仏教の神髄を究明していた日蓮は、「念仏仏教が流行っても全然世の中良くならないじゃん!」
というのが問題意識としてあったわけです。

そこで日蓮はそもそも今日本がこんな悲惨な状況なのは間違った教えが広まっているからだ。
念仏仏教を信じ続ければ国が滅ぶ。ということを当時の執政であった北条氏に進言します。

しかし、念仏宗教全盛の時代です。
当然他宗から猛反発をくらい、あらゆる圧力を受けます。

その結果、日蓮は離島への流刑や打ち首寸前になったりなどなど、それはひどい有様でした。
しかしそれでも日蓮は誤った教えを否定し続けます。
そして正しい教えである「法華経(ほけきょう)」に帰依すること「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」こそが人々を真に幸福にするのであるととなえ続けるのです。

創価学会の宗教の捉え方

そんなわけで日蓮の教え自体がかなり他宗教に対して攻撃的な考えを持っているのですが、
創価学会の他宗教に対して厳しい態度の要因には、さらに創価学会自身の歴史が関係していると思います。

数多くの日本人と恩師の命を奪った誤った宗教

もともと創価学会は日蓮正宗という、日蓮の教えを受け継いだ仏教宗派の門下として存在していました。
初代会長の牧口さんは小学校の校長であり教育学者でした。

「価値論」という考えを体系化したりとかなり熱心に教育学に取り組んでいました。
こんな本を書いてます→価値論 (レグルス文庫) [ 牧口常三郎 ]

その牧口さんが日蓮仏法と出会い、「日蓮の教えこそが求めていたものだ!」と日蓮正宗の門下となります。

牧口さんの小学校で働く教員が創価学会第2代会長の戸田さんでした。
戸田さんも日蓮正宗に入ります。

創価学会はもともと戦前に牧口さんが「創価教育学会」という名で組織した教育学を研究する団体でした。

しかし時は第2次世界大戦になります。
その時代は「国家神道」という天皇を神と見立てる宗教が日本の国教であり、
その宗教を信じない人間は逮捕され、時に死刑になる時代でした。
国家神道の名のものとに多くの日本人が戦争に駆り出されました。
つまり「宗教」のために日本人は戦争で命を落としたとも言えます。

そして国家神道に帰依することを断り続けて刑務所に入れられていた牧口さんが獄死します。
戸田さんも刑務所に入っていましたが、なんとか生きて出てきます。

恩師を死に追いやったもの、多くの日本人の命を奪ったもの。
その背景にあるのは「国家神道」という宗教でした。

戸田さんはそのような状況を見て「間違った宗教を信じるほど人を不幸にするものはない」と感じます。
そして間違った宗教の恐ろしさを知っているからこそ、世の中を幸せにする「正しい宗教=日蓮仏教」を広めることを目指して爆進して行きます。

これが創価学会の勃興期になります。

第2代会長戸田城聖は科学を否定しない

池田さんが師匠である戸田さんを描いた「人間革命」の中でも、宗教に対する話を色々と出てきます。

戦後の混乱にあって、新興宗教が乱立していく中で、怪しげな宗教にはまりお金だけ巻き上げられて、ちっとも幸せになるならない人。金のために宗教を利用する人達。

面白いのは「大事なのは心なのです!」とか「精神さえ豊かになれば人は幸せです!」なんていう風に、
私たちが典型的な宗教として想像するものに対して、戸田さんや当時の学会員は明確に「NO」といっています。

心だけでなく、体も健康でないといけない

精神だけでなく、生活も豊かになるべき

というか、そういうことを実現できないと宗教の意味はない。

真に人が幸せになるならないのであれば宗教の価値はない。

という感じで、とかく観念論に陥りがちな宗教に対しては厳しく断罪して、
実際に生活に役立ってこそ宗教である。という感じの考え方をしています。

また、戸田さんは理数系が得意だったこともあるせいか(理数系の参考書を作成したりするレベル)、
科学的なものの考え方を大事にしていました。

宗教なんて非科学的なものだと当時の日本人ですら感じていました。
(いわんや現代人はもっとそう思っているでしょうね)

でもそれも、宗教は生命の科学である。という立場であり、
科学と宗教が相入れないものではないとしています。

だから「他宗教をやっている人間100名と、創価学会をやっている人100名を毎年観察して、それを何年も繰り返して比較すれば良い。」なんていう風に、なんなら科学的なアプローチで検証したっていいじゃない、

ということまでスピーチしていたりします。

こんな感じで「誤った宗教による不幸」や「科学的で実質的な考えかた」により
他宗教が人を不幸にするのであれば徹底的に批判をしていた節はあります。

他宗教に柔和になった創価学会

 

そんな創価学会ですが、最近は他宗教に対して柔和になりました。
もともと創価学会の所属した、日蓮正宗も他宗派や他宗教には非常に厳しく接していたようです。

平成に入る頃までは創価学会は相変わらず日蓮正宗の門下でした。
だから古くは日蓮正宗の教えや関係もあって、神社や教会はもちろん、
地域のお祭りも参加するなというようなこともあったようです。

しかし20年くらい前に色々あって、日蓮正宗とは別れて、創価学会独自の道を歩みはじめました。
その後は他宗教への態度も軟化し、むしろ「積極的に地域に打ち解けるべし!」という感じになっています。

人を不幸にする宗教や団体にはもちろん毅然とした態度で臨むわけですが、
地域の祭りとか、クリスマスとかのイベントごとを何でもかんでも宗教に紐付けて考えるようなことはなくなったわけです。

また、他宗教に関しても、対立ではなく尊重しあう関係を目指しているように見えます。
(最近もローマ法王に創価学会の首脳陣が謁見に行ってました)

この辺りは私もまだまだ勉強中なのですが、
そこには第3代会長であり、名誉会長である池田さんが「世界広宣流布」を目指していく中での
多様な人種、文化と融和を図っていったというところも影響をしているように感じます。

 

このように、仏教の考え方、日蓮仏法の考え方、創価学会自体の考え方&歴史によって、
創価学会は他宗教に対して厳しいという話になっているのかなと思います。

ただ繰り返しですが、日蓮正宗と袂をわかってから随分とその辺りは軟化し、
創価学会と因縁のある宗教や団体(日蓮正宗や共産党)には相変わらず攻撃的なわけですが、
それ以外の宗教や団体とは積極的に融和を測ろうとしているように見えます。

もう少し勉強して、また自分なりに整理ができたら書いて見たいと思います。

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