子供のころ創価学会を避けてました。(入会理由:第2話)

(前回のお話はこちら)

わたしは関西の田舎町で育ちました。

近しい親族の中に1人だけ熱心な学会員がいて、
子供のころはわけもわからずに「座談会(ざだんかい)」なるものに連れて行かれることがありました。

創価学会キーワード:座談会 ※一般の方にもわかるように適宜解説をいれます。

月に1度程度、その地区に住む学会員が集まり、近況報告や学会活動の共有を行う場。なお、学会HPにも説明されていますが、説明が仰々しいので一般人は上記の理解で良いと思います。この説明よりも相当カジュアルな雰囲気です。(仰々しい書き方するから学会は怖いと思われるんじゃなかろうか?)

そこでは、人の良さそうなおっちゃんやおばちゃんが、世間話をして、最後に「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」とみんなで唱えていました。

寝る前には「南無妙法蓮華経」と唱えて、お願いごとをしてから寝ると、叶うとも教えてもらいました。

子どもだったので、これが世間の「当たり前」なのだと感じていました。お寺や神社は全て「南無妙法蓮華経」と唱えるものだと思っていました。

しかし、中学生になるころ、交友関係も増えてくる思春期を迎えると、それが世の中の「当たり前」ではないことに気がつきました。

親族の中でも、創価学会の活動をしているのはその一人だけでした。周囲の友達の家族も「学会員」ではない人の方が多いことに気がつきました。(もちろん、学会員の家もありましたが)

そうすると、なぜ「南無妙法蓮華経」なんてよくわからない言葉を唱える大人たちのいうことを聞いてきたのか?となんだか恥ずかしくなり、やがて、避けるようになりました。

ときおり、学会員のおっちゃんやおばちゃんが玄関先で座談会に誘ってきましたが、「僕には関係ないから」と断りました。

そんな時彼らは「けいちゃん(けいすけなので)もいつかわかる日がくるよ」と優しい目をしながら、悟ったようにいうのでした。

思春期の男の子としてはその「わかってるよ感」が逆に苦手でした。そんなつもりは相手にはなかったでしょうが、思春期の僕はその「わかってるよ感」に僅かな「上から目線」を感じていたのです。

幸いなことに、無理やり座談会に連れて行かれることもなかったので、悪い印象を受けて「アンチ」になることはありませんでしたが、積極的に関わることはしませんでした。

そうして、中学生以降は創価学会は近くて遠い存在になりました。

以降、15年以上関わらずに生きていくことになります。

そんな私がアラサーになり、どうして入会することになったのか。

入会してみてどう思ったのか。

そんなことを書いていきたいと思います。

(入会理由の続きはこちら

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